Grungy super stars

やんきー おじさん さんぱくがん

笑いのセンスに自信のあるみんなへ


これは感想文である。

高校卒業数ヶ月前、クラスの掲示板に貼る「今後の目標・夢を書く」という、痛々しいほどに平凡な課題が出た。私は中学の栄光を引きずり学年が上がるとともにドベの方へと落ちていった進学コースで学んでいた為、周りの友達は「医者になる」「早稲田に受かる」「歌手になる」等の大きくも努力の見える夢を描くものもいれば、「神を超える」「世界をピンク色にする」「犬」というセンスのある秀才が夢を描いていた。

私は「面白く生きて死ぬ」と書き、それを最後の犬と書いた友達に渡して好きなところに貼ってくれと頼んで帰った。翌日掲示板を見ると、大きな画用紙にクラス全員の夢が掲示されていたが、なぜか私の夢だけ天井に貼られていた。



自分のセンスの「面白さ」に全力を注ぎたい。そう思ったのは中学2年生の時である。当時よしもと見ホーダイにて配信されていたお笑い芸人、ライセンスさんの無限大トークを見て、衝撃を受けた。彼らの運命的な出会い、奇跡的に正反対の個性、高校時代からこの時代に至るまでの経緯、なによりトークの面白さ。

私はすべてのDVDを取り寄せ、彼らの出ている番組を見れるだけ見た。ケンカをしてた頃の映像を見てはその美しさに涙が出たほどだ。そこから私は沢山のお笑い芸人を今までとは違った見方で見るようになったのだ。




なぜこんな話をするのか?
又吉直樹著作『火花』を5回読了したからである。




あなたは電車で好きな芸人と嫌いな芸人の話をしたことがあるだろうか。あの芸人はあんまり面白くない、もうテレビ出ないでほしい、そんな何気ない会話を電車でしていて、前のつり革で悲しい顔をしていたらそれは私か芸人さんである。

歌手や映画の好き嫌いはなんとなく納得するものがある。それは人々の感性がそれぞれ全く異なるからだ。米津玄師が好きな子はRADWIMPSも好きだし、クリープハイプが好きな子は椎名林檎も好きだし、でもあいみょんはそんなでもない。多いのか少ないのかわからないが、少なくとも周りにはいる。
でも芸人の好き嫌いに関しては、勝ち誇ったような顔で嫌いと言える、そんな人がいないか。




歌手や映画と何が違うのだろうか。それはセンスだけでは問われない「面白い」かどうかの価値観である。




芸人さんがテレビやネットで浮上するには火花でも触れなかったような大変な努力が必要となる。養成所でのお笑い論を学び、幾千ものオーディション、劇場でのネタ見せ、Twitterやインスタでのバズり、キャラや個性の浮き出し、事務所との連携、単独、新作のネタ作り、先輩後輩の仲の取り持ち、芸能界把握、トーク、ひな壇、リアクション、ドッキリ、コント、漫談、漫才。これは聞いた話なのであまり確信めいて言うことはできないのだが、たいへんなのである。

こんなにいくつもの難題を乗り越えて、今出続けている芸人さんがいるのである。しかし努力だけではなんともならないのが面白さという才能である。過酷なものだ。事実ライセンスさんは養成所通いではなく、オーディションで通った道である。センスだけでは片付けられない才能というものが、いくつもの芸人さんを殺してきた。




小さい頃から漫才が好きで、よく兄の録ったVHSでM1グランプリを毎年見ていた。1番根強く私の心の中を揺さぶっているのは2003年の笑い飯さんである。本当に面白かった。今まで注目して見たことはなかったが、奈良県立歴史民俗博物館のネタは、6歳の私の面白さの幅をぐんぐんと広げていった。

それから内村プロデュースごっつええ感じ、8時だよ全員集合、笑いの金メダルエンタの神様オンバトあらびき団リチャードホールを中心に面白いお笑いのセンスを感じ取っていった。


漫才、それはセンスを同じくして組んだコンビやトリオが、話の掛け合いとスタンドマイクだけでお客さんからウケをもらう、究極のエンターテイメントだ。火花を読んでいてもその描写が読み取れる。

特にスパークスの最後の漫才は圧巻である。舞台中に泣くことなんてあるのか?これがあるのだ。ドッキリに安堵した涙、相方とまたコンビが組める涙、満開の拍手をもらった涙、いろんな涙があるのだ。

又吉先生はピースの又吉さんとしてそのような場面を見たことがあるのだろう。そしてさっき言ったように、センスだけでは片付けられない才能というものにぶつかり、2人だけでは超えられなかった仲間たちが解散していくのを、焦燥と寂しさを感じながら経験したのだろう。


徳永は周りが見る笑いのセンスと雰囲気に押し流されない、圧倒的な生き様と笑いの哲学を語る神谷に惚れ心酔し、師匠と挙げ、伝記を書くことを任された。芸人という人を幸せにする職業で食っていくには、努力だけではのし上がれないと目の前に突きつけられる現実があった。



どうも映画版の火花は鼻に付く。予告編やホームページを見ただけだが、幼なじみと夢提げて仕事している彼らはあんなにきれいなものでも無いと思う。私は小説を読んでて自然にNetflix版の火花を思い描いていた。


それに主題歌が好きだ。OKAMOTO’Sの『brother』、「1人でも適当にやれたらいいなとも思うけど」という歌詞が人間臭さを表していて、余計にコンビという文字を強くする。


もし今の文で気を悪くした映画版派の方がいるのなら、まあこれも冒頭で語った感性の違いから起こったギャップですのでどうかお気になさらず。板尾さんごめんね。



NSCの授業の中に、ある芸人のS氏によるX軸とY軸の話がある。
X軸は自分が信じている面白いと思うこと、Y軸は時代とタイミングだ。自分がこの面白さを伝えたい、今までで1番面白いお笑いだ、俺らのネタが最強に面白いと思うネタを作るのは、ごく当たり前のことである。

しかしそれにはY軸の時代とタイミングが重要となる。わかりやすく言えば、不謹慎だと言われるようなことや時事ネタ、世の中が共感するようなネタでなければ面白さが伝わらない。

たとえ一生この面白さは変わらないと信じてやり通しても、時代に寄せることがなければずっとウケる訳でもなくなるということだ。だから芸人さんはウケないことを時代のせいにする。時代が悪い。私もそう思う。

しかし何も今売れている芸人さんが、全て時代に合わせてきたわけではない。最高に面白く声を出して笑うものに沿って時代が流れる、つまりそれはお笑い論の哲学に誰もが追いつき理解した、そんなX軸とY軸の交差する地点が彼らだったというだけのことという、イレギュラーといえばイレギュラーだが、至って当たり前の事実が私たち一般人の前で広がっているのだ。

そんな現実と理想と欲の中で葛藤し、それもコンビ間で共有するということは、想像ができないくらい途方で極地の話である。そんな一部に火花で触れることができただけでも、今までお笑いを好きになった甲斐があった。



ずっと自分には笑いのセンスがあると思っていた。だがそれはただ自分の自己満であり、芸人さんの間で通用するものではない。そして時代は流れ、私が面白いというものも面白くなくなる時がやってくる。だがそれでも自分の我を貫きY軸を待つか、他人と今を生きるか。そんな笑いの問題とは思えないほど固執する概念がある。

だが、何があっても自分の面白かったものに疑問は持たない。高校時代に描いた夢をこれからの人生のレールとして、芸人さんに尊敬の念を抱きながら笑いを信じる。



それが一瞬の輝きであっても。